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彼には、何の縁故もないその男が医者としての自分をたよつて来たのが何よりうれしかつた。あの男はおれの一番最初の患者と云つてもいゝ位だ。それがありがたいことにうまく行つたのだ。何しろ、寄生虫にはやく気がついてよかつた。あんな風だと、前に大石医院で診察をうけていたのかもしれない。塔の山と云ふのはたしか下の半里ばかりの所から山に入つたあたりだつた、――さう考へているうちに房一はふと昨夜往診をたのまれたことを思ひ出した。
「いや、もう御免蒙つて脱いで行かう」
今や事情は一変してしまつた。かつて御ぎよし易い息子だつた練吉は、正文の常識では計りきれないやうな矛盾、我儘を次々とひき起して、何とかして押へようとかゝつている正文は殆ど息子の意のまゝになつているのだつた。
家賃はいくらでもいいと云うから、こッちで勝手にきめて持たせてやったら、多すぎる、と云って受けとったそうだが、東京の相場の四分の一ぐらいの家賃かも知れない。伊東は家賃がやすい。
「やあ。――こちらへ」
急いであたりさはりのない返事をすると、今泉はもう隣りの人の方を向いて挨拶をした。
と、彼は恐しく手まどつて答へた。
「えらい昔話が又ぶり返したんだな」
「さうかね、梨地へ行くんなら、やつぱりこゝを渡つた方が近道だ。井出下の渡しはもうないからね」
さう呟くと、小谷は追鮎の力を試すやうに竿を高く上げてみた。彼のきいきい云ふ金属性の声は、こんなひとり言のときでも絶えず房一に向つて話しかけたがつているやうであつた。
「いや、あの晩の、ほんの三二日前です」
房一はどこか鹿爪らしい恭順な面持で、控目にじつくり身体を押へるやうにして上るとうしろ向きになつた猫背の老医師の肩がひよいひよいとまるで爪さきで歩いているやうに彼を奥の方へ導いて行つた。